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26 Sep. 2007 (Wed.)

術後1週間。
初めての外出。
いい加減メールチェックしないと。
病院の近くにあるというネットカフェへ。

日本のネットカフェは初めて。
タクシーが止まったのはマンガ喫茶の前。
この中にあるらしい…。
マンガ喫茶も初めて。
中は個室がずらり。
1時間400円。
3時間で1,000円。
飲み物は飲み放題。
マンガは読み放題。
ネットは使いたい放題。

こんな商売が成り立つなんて。
ほんと,このギャップ。

急いでメールを開く。
新着メール48件。
業務連絡はもちろんだけれど。
カンボジアのいろんな人たちからの励ましのメール。
一通り目を通す。
気合を入れて返事を打つ。
けど…
ダメだ。
打ったり消したりの繰り返し。

ちょっと泣いてみた。
そしたら止まらなくなった。
そういえば事故以来,初めて1人になった。
なんかすっきりしないと思っていたけど。
そっか,ずっと泣きたかったんだ。

一緒に出かけた先生方。
どんなに責任を感じていることだろう。
16日から隊員4人で任国外旅行。
ラオスへ行くことになっていた。
ので,ピアニカ講習会も15日の午前の部を最後に,5日間だけお休み。
の予定だった。

その日,朝学校へ行くと,いつもはギリギリにやってくる先生たちがもう集まっていた。
「明日からしばらくチィに会えないんだね・・・。」
「チィがお休みするなんて,初めてのことだね。」
「5日間も会えないのかぁ。」
「今日は練習ナシにして,チィの行きたいところにみんなで行こう!」

口を挟む間もなく話はまとまりつつあった。
休み中なのに毎日学校へ来て,何時間も練習していく。
そんな先生方にお楽しみの一日があってもいい。
「チィ,どこの遺跡に行きたい?」
「ベン・メリア!!」
迷わず答えた。
地雷がようやく撤去されたばかりで,まだ殆ど修復が入っていない。
ずぅ~~っと前から行きたかった。
50~60キロ離れているので,1日中かかる。
こんなチャンス,またとない!!

7人の先生方と速攻で出発。
道中,ノンバンチョッを食べたり,椰子砂糖作りを見たり,見たことのない果物を山ほど買ったり・・・。
モトで3時間半だけど,楽しいドライブ。
だった。

遺跡は予想以上。
本物のラピュタだ。
大木と遺跡のコラボレーション?
木の成長によって遺跡が少しずつ壊されていく。
でも,今木を切ってしまったら遺跡はもう立っていられない。
木たちは,遺跡を破壊しながら守っている。

崩壊した瓦礫の山をよじ登る。
興奮で,ほっぺたが熱くなるのを感じた。

半分も見ただろうか。
高さ4~5mのところから遺跡を見渡す。
と,スコール。
突然の大雨。

あ!落ちる!

しっかり記憶があるのはここまで。
みんなの悲鳴と助けを呼ぶ叫び声が,ずっと遠くの方で聞こえた感じがした。

救急所のあるというところまで,自力で歩かなくてはいけなかった。
かなりハードな,道なき道を這い登ってきたため,人に運んでもらうのは軽く不可能。
激痛で気が遠くなる。
意識がはっきりしないまま,何とか到着。
板の上に寝かされた。らしい。

気づくと,大勢のクメール人の男の人たちに囲まれていた。
そしてその周りは赤いドクロの看板だらけ。
辺りは地雷原だったらしい。
救急車のようなやつが来るまで1時間半。
病院まではジープで2時間半。
病院にはレントゲンがなく,トゥクトゥクでさらに移動。
痛み止めの注射を3本打って少し落ち着いた。

私から離れない先生方の目には涙が。
悲しそうな顔に胸が痛い。
いくら元気に 「オッ・パニャハー・テー!」と言ったところで…もう遅い。

ベン・メリアに感激する私。
を連れて,満足する先生方。
最高だったね。
と言って終わる一日。
のはずだった。
私が台無しにした。
謝っても謝っても,時間は戻らない。

一緒にラオへ行く予定だった,バッタンバンの隊員が到着。
健康管理員から連絡があったらしく,病院へ直行してくれた。
同期と,クラチェの隊員も到着。
その日の夜は,みんなで前夜祭のはずだった。
旅行前にとんだ迷惑を…。

シェムの他隊員とSVの奥様も駆けつけてくれた。
PPまでの飛行機の手配や病院の支払い等,細かい雑務を全て片付けてくれた。

夜は隊員3人が泊まって看病してくれた。

事故の翌日,朝の6時頃から先生方の訪問が絶えなかった。
携帯で連絡をとりあうので,広まるのも速い速い。
ひそひそと話すその様子は,まるでお葬式。
そして,私の姿を見て,顔を覆って泣き出す。
いやいや,まだ生きてますが…。
へらへら笑う私を怒る。

PPから帰ったその足ですっ飛んできた校長先生。
わたしの部屋を,気が狂ったように1時間ほど歩き回っていた。

この時点で日本への強制送還はほぼ決定。
日本に帰るということは,腕が元通りになるまで戻ってこれない。ということ。
どんなに少なく見積もっても3ヶ月~半年は日本で療養。
長すぎるッ!
どうしてもバンコクにしてほしい!と直談判。
が,こっちでの手術はおそらく不可能。
帰国の可能性が9割だ。と,健康管理員。

どうしよう。
実家に連絡しないわけにはいかないか…。
どんなに心配するだろう…。
飛行機の便が決まってからでいいか…。
と,携帯を見つめているところに呼び出し音。
お母さんからッ!?
『千草のパキラ』が枯れたらしく,心配してかけてきた電話だった。
すげぇ…。

大家さんはひたすらお粥を運んでくれる。
血のついたジーパンはきれいに洗ってくれた。
荷造りや部屋の片付けは,先生方がやってくれた。

事故から2日後,朝一の便でシェムからプノンペンへ。
空港にはシヴォン先生と彼女のお母さんが見送りに。
二人とも泣いている。

PPでは健康管理員がすぐに病院に連れて行ってくれた。
が,ここでも大した固定をしてもらえず…。
落ちたときに巻いていたクロマーで腕を吊ったまま。
とりあえず痛み止めの注射を2本。

空港からは車椅子が用意されていた。
PPの医師に書いてもらったレターのおかげで,VIP待遇。
荷物は千歳までスルーだし,検査場も並ばずに優先して通過させてくれる。
バンコクのあのアホみたいに長い通路は,空港の職員がずっと車椅子を押してくれた。
足は元気なのに…とっても申し訳ない。

離陸と着陸は死んだ。
シェムリアップ → プノンペン
プノンペン → バンコク
バンコク → 成田
成田 → 千歳

振動で激痛が走る。
もう着陸しなくていいです!
一生飛んでてください!
って感じ。
空港での両親との再会。
以前より小さく見える2人。
この9ヶ月間の苦労の跡がありありと…。
こんな姿で帰ってきて。
そんな2人に更に心配をかけて。
なんて親不孝。

お母さんが泣く。
本当に本当にごめんなさい。

先日は祖父母が駆けつけてくれた。
祖父の作った懐かしい味のお弁当。
祖母も泣く。
死ななくてよかった。と。
カンボジア行きを,あんなにも反対していた祖母。
それでも最後には,頑張っておいで!って送り出してくれたのに。
相変わらず心配ばかりかけるダメダメな孫。


この12日間のことが一気に思い出される。
2時間泣いてみたらちょっとスッキリ。

活動が波に乗ってきたところだった。
先生方のやる気も高まってきたところだった。
やりたいことがいっぱいあった。
計画だけが宙ぶらりんだ。
あれもしたい,これもしたい。

泣きたいのは,ただのわがまま。か。

病院には色んな事情を抱えた人がいっぱいいる。
ただのドジ事故の私が落ち込んではいられない。
かっこわるいぞ。千草。

がんばろう。
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[ 2010/07/06 20:49 ] 日記 2007 | TB(0) | CM(0)
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